大阪地方裁判所 平成4年(ワ)1850号 判決 1997年2月27日
原告
甲田太郎
原告
甲田花子
右原告両名訴訟代理人弁護士
石川寛俊
被告
枚方市
右代表者市長
中司宏
被告
乙山次郎
右被告両名訴訟代理人弁護士
石井通洋
同
間石成人
同
夏住要一郎
右訴訟復代理人弁護士
阿多博文
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、各自、原告らに対し、それぞれ三三四六万四〇二三円及びこれに対する平成二年一二月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 当事者
(一) 原告らは、甲田A子の(以下「A子」という。)の両親である。
(二) 被告枚方市(以下「被告市」という。)は、枚方市禁野において市立枚方市民病院(以下「枚方市民病院」という。)を経営しており、被告乙山次郎(以下「被告乙山」という。)は同病院の副院長で産婦人科医である。
2 A子出産に至る経緯
(一) 原告甲田花子(以下「原告花子」という。)は、平成二年一二月三日(以下いずれも平成二年一二月の出来事については、日のみを記載する。)、枚方市民病院で被告乙山の診察を受けたところ、同医師から、出産が始まりかけているのですぐに入院するよう指示され、同日午後三時ころ同病院に入院した。
(二) 原告花子は、三日午後三時三〇分、担当看護婦から、子宮口を柔らかくする薬であるとして子宮収縮剤プロスタルモンEの服用を指示され、これを一回一錠ずつ一時間毎に五回服用した。
これに加えて、原告花子は、同日午後四時ころ、担当看護婦から、子宮口を柔らかくするためであるとしてマイリス一A二〇〇ミリグラム及び五パーセントブドウ糖二〇ミリリットルを注射された。
(三) 原告花子は、三日午後一〇時ころから、陣痛様の痛みが発来し、翌四日午前〇時ころには、その間隔が五分くらいに縮まったので、担当看護婦に対し、その旨告げたところ、同日午前一時四〇分ころ、陣痛室に移された。
原告花子は、同日午前四時ころから、二分間歇の陣痛が始まったので、助産婦を呼んだが、助産婦は三、四分間歇であると原告花子に告げたに過ぎなかった。
同日午前七時ころからは、陣痛に間隔がなく連続的となってきたが、内診の結果では、子宮口は一指開大であった。
原告花子は、その後も陣痛が持続するので、助産婦に対し、かなり強い陣痛が来ていることを訴えたが、医師が同日午前九時に回診に来るからと言って、取り合わなかった。
(四) 原告花子は、四日午前九時四〇分ころ、入院後初めて被告乙山の診察を受けた。しかし、被告乙山は、原告花子が昨夜以来の陣痛の様子を訴えているのに、陣痛が微弱すぎるとして、看護婦に陣痛促進剤であるアトニンの注射を指示し、同日午前一〇時ころ、助産婦が原告花子にアトニンの注射をした。
その際、共に回診していた枚方市民病院の産婦人科医であった丙川三郎(以下「丙川」という。)が、内診の要否を被告乙山に問うたが、被告乙山は内診は不要と返答した。
(五) 原告花子は、アトニンの注射後しばらくした四日午前一〇時過ころ、下腹部の極度な張り、腰部及び腹部の全体的な痛み、喘息の発作のような呼吸困難を生じたので、何度も医師の来診を求めたが、応じてもらえなかった。
原告花子は、同日午前一〇時四五分、看護婦から、ドップラー計測法で胎児心音の測定を受けたところ、心拍数が毎分七〇拍程度まで低下し、胎児仮死の徴候が現われていた。
被告乙山は、そのころ、ようやく原告花子を診察しに来たが、原告花子に我慢するよう指示するだけで、何ら右のような症状を改善する措置を採らなかった。
その際、丙川が内診したところ、原告花子の子宮口は三、四センチメートルまで開大しており、その後七、八センチまで開大していった。その後も、原告花子の呼吸困難、下腹部痛はおさまることなく続いた。
(六) 原告花子は、四日午前一一時二〇分ころ、分娩室に移動したが、自力で分娩台に移れない状況であった。
原告花子は、移室後直ちに酸素吸入を受け、分娩監視装置を装着されたところ、被告乙山は、胎児心拍を確認するや、「赤ちゃん仮死状態。帝王切開。」と叫び、帝王切開術の準備を開始した。
被告乙山は、同日午前一一時三五分ころ、職場にいた原告甲田太郎(以下「原告太郎」という。)に電話をかけ、胎児は存命しているが、帝王切開を緊急に行う必要がある旨告げ、帝王切開実施の了解を得た。
(七) 被告乙山らによって、原告花子に対し、帝王切開術が施され、四日午前一一時五七分にA子が出生した。
A子は、アプガースコア〇の重症仮死の状態で出生し、三〇分後にアプガースコアは一になったが、新生児集中治療室から出ることなく、一二日午前一一時五七分、重症仮死による腎不全により死亡した。
3 被告乙山の責任
被告乙山は、次のとおり、民法七〇九条により、原告らに対し、後記損害を賠償する責任がある。
(一) 陣痛促進剤の使用に関する過失
(1) プロスタルモンE及びアトニンは、人工的に子宮収縮を作り出す薬理作用を有する陣痛促進剤であるが、その副作用として、過強陣痛ないし硬直性子宮収縮による胎児仮死や胎盤早期剥離の合併症を引き起こす危険性がある。
(2) プロスタルモンEは、ジノプロストンを有効成分とする製剤であるところ、前記のような副作用があるため、医療施設側の事情により計画分娩を行うために使用してはならず、妊婦及び家族の強い希望や同意のある場合に、母体が既に分娩準備状態にあって、十分な分娩監視ができるときに、子宮筋の感受性を確認したうえでのみ、これを使用することが許される。特に、喘息やアレルギーの既往症がある妊婦に投与するときは、慎重に行わなければならず、分娩を十分監視する必要がある。
ところが、原告花子及びその家族は、プロスタルモンE投与による陣痛促進を希望ないし同意しておらず、また、原告花子は、アレルギー体質を有していて、喘息も経験していたから、被告乙山は、原告花子に対し、プロスタルモンEを投与すべきではなかったにもかかわらず、これを投与した。また、被告乙山は、原告花子に対し、プロスタルモンEを投与する際、慎重に行わなければならず、投与後も原告花子の分娩を十分に監視すべきであったにもかかわらず、これを怠った。
(3) アトニンは、子宮収縮の促進、子宮出血の治療に効能があるオキシトシン注射液であるところ、陣痛を促進するために使用する場合には、妊婦に微弱陣痛が見られるときに限られ、子宮口が三センチメートル以上開大し、頸管が成熟していなければならない。
ところが、原告花子は、微弱陣痛ではなく、その子宮口は、四日午前七時の内診の際わずかに一指開大で、アトニン投与時にも三センチメートルに達しておらず、頸管も成熟していなかったから、被告乙山は、原告花子に対し、アトニンを投与すべきではなかったにもかかわらず、これを投与した。
(4) 右のとおり、被告乙山は、原告花子に対し、プロスタルモンE及びアトニンを投与すべきではなかったにもかかわらず、これを投与し、また、これを投与する際には、妊婦、胎児の状態を観察しながら慎重に投与すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠って漫然と過大な投与を行ったため、右薬剤の副作用により原告花子に過強陣痛が生じて、胎児心拍が低下し、あるいは過強陣痛の合併症としての胎盤早期剥離を生じ、A子が重症仮死となり死亡した。
(二) 胎児心拍監視不十分の過失
(1) アトニンには、薬理作用の不明な部分や感受性に個人差がある上、子宮収縮の増強や過強陣痛出現といった初期反応がみられるので、医師は、アトニンを投与する場合には、投与開始後子宮収縮が安定するまで少なくとも三〇分間連続的に胎児心拍等(胎児の心拍については、後記のとおりである。)を監視し、また、分娩監視装置を用いて連続的に分娩状態を監視しなければならない。
仮に、アトニン投与直後から胎児心拍の監視を連続して行う必要がなかったとしても、原告花子は、同日午前一〇時ころには、持続的な息苦しさや下腹部痛を訴えて医者の来診を求めており、このような症状が、原告花子の陣痛促進剤に対する反応である可能性を考慮すると、新生児仮死につながる胎児仮死を予防するためには、被告乙山は、遅くとも胎児仮死徴候の現われた四日午前一〇時三〇分前ころからは、分娩監視装置で胎児心拍を連続的に監視すべきであった。
右のとおり、被告乙山は、四日午前一〇時ころアトニンの投与を始めた時から少なくとも三〇分間は、原告花子の胎児心拍等を自ら分娩監視装置を使用して連続的に監視等すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠った。また、被告乙山には、遅くとも、原告花子に呼吸困難などの異常が生じ、胎児仮死徴候の現われていた同日午前一〇時三〇分前ころから分娩監視装置を使用して胎児心拍等を連続的に監視すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠った。なお、被告乙山は、助産婦ないし看護婦をして三〇分ないし一時間毎にドップラー計測法によって胎児心拍数を測定させていたが、右測定方法では、測定者の主観的誤差が避けられず、胎児心拍の時間的な動きを正確に測定することが不可能であるから、十分な監視とは言い得ない。
(2) 被告乙山が、前記のような胎児心拍の連続的監視を行っていれば、遅くとも四日午前一〇時三〇分前に胎児心拍の低下を発見することが可能であったにもかかわらず、そのような連続的監視を行わなかったために、A子に胎児心拍の低下が発生していることに気付くのが遅れ、A子を救命不可能な重症仮死に至らしめ、死亡させた。
(三) 帝王切開術決断遅延の過失
(1) 一般に胎児心拍は毎分一二〇拍ないし一六〇拍で正常、一二〇拍以下で軽度徐脈、一〇〇拍以下で高度徐脈とされ、高度徐脈は胎児仮死の徴候とされているところ、これに対する処置としては、まず母体の体位変換、酸素吸入、陣痛抑制などの継母体療法を、もし胎児仮死の所見が不変または悪化のときは急速遂娩、胎児仮死が重症、または急激発症のときは直ちに急速遂娩(継母体療法併用)を行うべきとされている。そして、急速遂娩術が要求される胎児仮死は、持続的な徐脈又は一〇〇以下の高度徐脈への移行あるいは一五分以上連続した遅発一過性徐脈などによって診断される。
本件では、四日午前一〇時二〇分ころから既に徐脈が始まっており、連続的に胎児心拍監視がなされていたならば、同日午前一〇時三〇分ころから一〇時四五分ころには胎児心拍の持続的徐脈が発見されたはずであるから、午前一〇時三〇分ころか、午前一〇時四五分ころには胎児仮死の重症化と診断可能であった。そして、原告花子が初産婦で、同日午前一〇時四五分の時点でも、子宮口が開大が少なく、経膣分娩の可能性はなかったから、被告乙山は、直ちに帝王切開を決断すべきであった。
仮に、同日午前一〇時四八分以前の胎児心拍の連続的記録がないため、同時刻移行の徐脈傾向だけから判断しなければならないとしても、同日午前一一時までには、高度徐脈を確認できたから、被告乙山は、同日午前一一時ないし一一時〇五分には帝王切開を決断すべきであった。
(2) 一般に、胎児の救命が不可能となる時期は、胎児心拍停止後三分ないし五分であるとされるところ、本件では、A子は四日午前一一時三五分には胎児心拍が存在し、未だ生存していたから、被告乙山が帝王切開術施行を同日午前一一時ないし一一時〇五分ころまでに決断していれば、帝王切開実施まで準備に三〇分かかったとしても、同日午前一一時三五分ころにはA子を娩出できたはずである。そうすると、A子は、同日午前一一時五七分に心拍停止状態で出生したが、娩出後の蘇生術により三〇分後に心拍再開していることからして、その三分ないし五分前の一一時五二分ないし五四分が心拍停止時刻であったということができるから、A子を救命できた可能性が高く、予後を大きく改善できたはずである。
ところが、被告乙山は、同日午前一〇時三〇分ころか四五分ころ、遅くとも午前一一時ないし一一時〇五分ころには帝王切開を決断して胎児を救命すべき義務があったにもかかわらず、これを怠り、午前一一時二〇分に原告花子を分娩室に移動させた後初めて帝王切開を決断し、その後、帝王切開の準備をして午前一一時五七分にようやくA子を娩出したため、既に救命不可能なほどにA子の胎児仮死を重症化させA子を死亡させた。
4 被告市の責任
被告乙山は、被告市の経営する枚方市民病院に勤務する医師であり、被告乙山の前記行為は被告市の事業の執行につきなされたものであるから、被告市は、民法七一五条により、原告らに対し、後記損害を賠償する責任がある。
5 損害
(一) A子に生じた損害
(1) 逸失利益二八三二万八〇四六円
A子は、平成二年一二月四日生まれの女の子であり、その平均余命は七三年で、四九年間就労が可能であったから、その逸失利益は、次のとおり二八三二万八〇四六円となる。
172万5300円(平成元年賃金センサス一八歳から一九歳女子労働者の平均年収)×16.4192(新ホフマン係数)
(2) 慰謝料 二〇〇〇万円
A子は、計り知れない肉体的及び精神的苦痛を受け、その慰謝料は二〇〇〇万円を下らない。
(3) A子の右損害について、同人の死亡により両親である原告らが二分の一ずつ相続した。
(二) 原告らの損害各五〇〇万円
原告らは、初めて恵まれた子の健康な出生を熱望していたにもかかわらず、前記不法行為によってA子を失い、大きな精神的・肉体的苦痛を被った。その慰謝料は、各五〇〇万円を下らない。
(三) 弁護士費用 各四三〇万円
原告らは、本訴の提起遂行を原告ら訴訟代理人に委任したので、これに要する費用のうち各四三〇万円は前記不法行為と相当因果関係のある損害である。
6 よって、原告らは、それぞれ、不法行為に基づく損害賠償請求として被告らに対し、各自三三四六万四〇二三円及びこれに対する不法行為の日である平成二年一二月四日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1(一) 請求原因1(1)の事実は不知。
(二) 同1(二)の事実は認める。
2(一) 同2(一)及び(二)の事実は認める。
(二) 同2(三)の事実中、四日午前七時の内診の際に子宮口が一指開大であったことは認めるが、その余は否認する。
(三) 同2(四)の事実中、四日午前九時三〇分ころ被告乙山が診察したこと及び同日午前一〇時ころ助産婦が原告花子に陣痛促進剤であるアトニンの点滴注射をしたことは認めるが、その余は否認する。
(四) 同2(五)の事実中、四日午前一〇時四五分ころ原告花子が呼吸が苦しいと訴えて医師の来診を求めたこと、その時胎児心拍数が毎分七〇拍程度に低下していたこと、同日午前一〇時五〇分ころ医師が原告花子を診察したこと(但し、被告乙山ではなく丙川であった。)、丙川の内診によれば、右時点で原告花子の子宮口は三、四センチメートル開大しており、その後七、八センチメートルに開大していったことは認めるが、その余は否認する。
(五) 同2(六)の事実中、原告花子を四日午前一一時二〇分ころ分娩室に移動したこと、原告花子が助産婦らに担ぎ上げられて分娩台に移動したこと、分娩室において原告花子に酸素吸入がなされ、分娩監視装置が装着された(但し、同日午前一〇時四五分から右措置はなされていた。)ことは認めるが、その余は否認する。
(六) 同2(七)の事実は認める。
3(一) 同3(一)の事実中、プロスタルモンE及びアトニンが子宮収縮を強めることによって分娩を促進させようとするものであることは認めるが、その余は否認ないし争う。
(1) 原告の主張する陣痛促進剤の適応や投与方法は、社団法人日本母性保護医協会(以下「日本母性保護医協会」という。)が平成二年一月に発行した「産婦人科医療事故防止のために(陣痛誘発・促進、分娩痳痺編)」(以下「本件冊子」という。)に記載されているものの、未だ一般的ではなかった。そして、こうした指導内容が一般的な医療現場に定着するには相当の時間を要するのが通常であるところ、本件出産は、本件冊子の発行から一年も経過していない時点であり、枚方市民病院で本件と同様の陣痛促進剤投与による事故例は全く存在しなかったことを合わせると、本件のような陣痛促進剤の使用、投与が当時の医療水準に反したものと言うべきでない。また、平成七年においても、名古屋や東京の複数の大学病院において全例計画分娩をしており、平成二年当時の医療水準に照らせば、計画的な分娩誘発が一般的な医療水準に反していたものとは言えない。
(2) 被告乙山は、プロスタルモンEを投与するに際して、原告花子に産徴があり、母児とも健常で経膣分娩が十分可能であることを確認した。
また、原告花子に前期破水の疑いがあり、分娩開始前に、胎児を外界から保護している卵膜が破れて感染が生じるおそれがあったため、アトニンを投与したのであり、アトニンの投与にも適応があったし、被告乙山は、アトニンの投与を決めるに際して、腹壁を触診して児頭の下降の度合い、子宮口の開大度、子宮頸管の熟化度なども確認した。
(3) アトニンの投与後は、経験のある助産婦が妊婦のベッドサイドで五分ないし一〇分おきに陣痛と胎児心拍を監視していたのであり、こうした分娩監視方法は当時の一般的医療水準に比して劣っていたものではない。
(4) A子が胎児仮死となったのは、帝王切開時の所見から明らかなように、原告花子に突然胎盤早期剥離が生じたためであるところ、アトニン投与が胎盤早期剥離の原因になりうるという一般的な医学的知見はなく、本件では、アトニンの投与を中止しても胎児心拍が回復しなかったこと、過強陣痛が生じていなかったことからすれば、アトニンの副作用として過強陣痛が起こり、胎盤早期剥離が生じたとは考えられず、胎児娩出時に臍帯巻絡が見られたように、臍帯巻絡による早期胎盤剥離が胎児仮死の原因となったと推測される。
(二) 同3(二)の事実中、陣痛促進剤の投与に当たっては、胎児心拍の監視を十分行って胎児仮死を防止すべきであることは認めるが、その余は否認ないし争う。
(1) 陣痛促進剤を投与した場合でも、特に異常がなければ、三〇分ないし六〇分毎にドップラー計測法で監視すれば足りるとするのが当時の産婦人科医の一般的な医療水準であり、枚方市民病院における監視方法が他の医療機関に比して劣っているとは言えない。
本件でも、四日午前七時までほぼ一時間毎に助産婦が胎児心拍数、陣痛の状況、出血、破水の有無を監視しており、午前八時、午前九時四〇分には被告乙山が診察し、午前八時一五分、午前一〇時、午前一〇時三〇分には助産婦が胎児心拍の正常を確認している。また、原告花子に異常所見が初めて見られた同日午前一〇時四五分からは、直ちに分娩監視装置を装着して監視にあたっているのであるから、監視は尽くされている。
(2) 四日午前一〇時二〇分及び一〇時三〇分の時点では、胎児心拍は正常であったことが測定されているから、仮に分娩監視装置を用いて胎児心拍を測定していたとしても、同じことである。胎盤早期剥離は、同日午前一〇時四五分ころ突然発症したものであるから、胎児心拍をそれ以前から連続的に監視していたとしても、胎児の救命可能性を高めることにはならない。
(三) 同3(三)の事実中、被告乙山が帝王切開を決断したのは四日午前一一時二〇分の分娩室への移動の後であったことは認めるが、その余は否認ないし争う。
(1) 四日午前一〇時三〇分ころまで胎児心拍は正常であったし、胎盤早期剥離を予見しうる事情もなかったから、同日午前一〇時四八分ころに突然徐脈が確認されたとしても、直ちに帝王切開術を決定し施行すべきであるとは言えない。また、同日午前一〇時四八分以降少なくとも一〇分ないし一五分は分娩監視装置上の胎児心拍監視を行って初めて持続性徐脈の判断が可能となるし、一〇時五〇分以降子宮口の開大がみられ、帝王切開によるよりも早期遂娩が可能で、かつ手術による侵襲も避けうる経膣分娩も期待しうる状況にあったから、持続的徐脈の判断が仮に午前一一時一〇分ころ可能だったとしても、その決定のため、それから一〇分程度遅延したのもやむをえない。
(2) 胎児仮死の原因は、前記のとおり、原告花子に重症の胎盤早期剥離が生じたためである。重症の胎盤早期剥離の胎児死亡率は六〇ないし八〇パーセントとされており、発症した場合、胎児への酸素供給は急激に減少し、または途絶するので、直ぐに娩出しなければ胎児を救命できない。そうすると、本件のような突然重症の胎盤早期剥離が生じた場合、帝王切開の開始まで三七分程度準備の時間を要することを考慮すると、仮に胎児心拍の異常を認めて直ちに帝王切開術を施行していたとしても、胎児の死亡は避けることができなかった。
また、本件では、胎児娩出から三〇分後に胎児心拍が再開しているが、これは単に、蘇生術としてボスミンが投与されたことなどから、心筋の自動能が動作したことによるものであり、胎児娩出時刻である四日午前一一時五七分の三分ないし五分前を胎児心拍停止時刻と推定することはできない。なぜなら、心拍停止後三分ないし五分で娩出できたとすれば、その時点で蘇生術を施し、ボスミンを投与することにより直ちに心拍が回復するのが通常であるからである。
4 同4の事実中、被告乙山が被告市の経営する枚方市民病院に勤務する医師であることは認めるが、その余は争う。
5 同5の事実は不知。
第三 証拠 <省略>
理由
一 請求原因1(当事者)について
1 <省略>
請求原因1(一)の事実を認めることができる。
2 同1(二)の事実は当事者間に争いがない。
二 請求原因2(A子の出産に至る経緯)について
<証拠略>
1 被告市は、枚方市禁野において枚方市民病院を経営しており、被告乙山は、平成二年当時、同病院の副院長で産婦人科医であった。
2 原告花子は、平成二年六月四日、枚方市民病院の産婦人科で外来受診したところ、妊娠一二週一日と診断され、以後定期的に同病院で受診することになり、被告乙山がその診療を担当した。
原告花子は、妊娠第二八週、第三六週、第三七週に尿蛋白の陽性が認められたため、被告乙山から、水分や塩分の摂取について注意を与えられたが、それ以外に異常は認められなかった。
3 原告花子は、平成二年一二月三日、枚方市民病院において、第三八週目の定期検診を受けた。
被告乙山は、原告花子から血性の分泌物の排出があったことを聞き、胎児の心拍が早くなっていること、内診で子宮口が指一本分開いていること、子宮口に指を入れると子宮が収縮することを確認して、出産のため、原告花子に直ぐに入院するよう指示した。そこで、原告花子は、同日午後三時ころ同病院に入院した。
被告乙山は、原告花子の分娩を誘発するため、看護婦に対し、陣痛促進剤であるプロスタルモンEの服用、子宮頸管熟化剤であるマイリス二〇〇ミリグラムと五パーセントのブドウ糖二〇ミリリットルの注射及び陣痛が発来した時の高圧浣腸の施行を指示した。
原告花子は、同日午後三時三〇分ころ、助産婦から、プロスタルモンEの服用を指示され、これを一錠ずつ一時間毎に五回服用した。
また、同日午後四時ころ、原告花子に対し、子宮口を柔らかくするためにマイリス一A二〇〇ミリグラム及び五パーセントブドウ糖二〇ミリリットルの注射がなされた。
4 三日午後五時三〇分ころから原告花子に陣痛様の痛みが発来し、同日午後九時ころ、少量の出血がみられた。
翌四日午前一時ころ、陣痛の間歇は約五分となり、出血と破水が認められたので、原告花子に高圧浣腸が施行され、原告花子は、同日午前一時二〇分ころ、陣痛室(準備室)に移された。
同日午前一時三〇分ころ、原告花子に性出血と少量の羊水漏れが、同日午前六時、午前七時、午前八時一五分にも性出血が認められた。
同日午前三時三〇分ころ、原告花子の陣痛間歇が三、四分、陣痛持続時間が約二五秒となったが、陣痛の間歇や陣痛持続時間は、以後同日午前七時ころまで特に変化がなく、同時刻の間歇は四、五分、陣痛持続時間が二〇ないし二五秒、子宮口開大が一指ほどであり、胎胞が認められた。
5 被告乙山は、四日午前八時ころ回診し、原告花子の分娩が進行していないことを確認した。原告花子は、間歇がなくなってきてつらいことや呼吸が苦しいことを伝えようとしたが、被告乙山は、問診をすることもなく、五パーセントのブドウ糖二〇ミリリットルとマイリス二〇〇ミリグラムの静脈注射及び陣痛促進剤であるアトニンの点滴を助産婦に指示した。
6 被告乙山は、四日午前九時三〇分ころ、再び原告花子を回診し、原告花子の分娩が依然進行していないことを確認し、それまでに前記アトニンの点滴注射がなされていなかったので、右点滴注射を再度助産婦に指示した。
その際、原告花子は、被告乙山に対し、呼吸が苦しいことなどを訴えたが、被告乙山は特にこれを気に止めなかった。
7 助産婦の丁木(以下「丁木」という。)は、四日午前一〇時ころ、原告花子に対し、毎分八滴(四ミリリットル)の速度でアトニンの投薬(点滴静脈注射)を開始した。
その際の原告花子の陣痛の間歇は四、五分で、陣痛持続時間は約二〇秒、胎児心拍数は毎分約一四四拍であった。
その後、原告花子は、腹部の張り、呼吸困難等を強く感じるようになり、耐えきれずナースコールを押したが、丁木は、医師の内診を受けるのは無理である旨返答し、これに応じなかった。
丁木は、同日午前一〇時以降、五分ないし一〇分おきに原告花子の陣痛、胎児心拍数を測定していたが、特に異常は認められなかった。
8 四日午前一〇時三〇分ころの原告花子の陣痛間歇は二、三分、陣痛持続時間は約二〇秒、胎児心拍数は毎分約一三二拍で、出血はあったが破水はしていなかった。
枚方市民病院では、アトニンの投与を開始して三〇分が経過しても強い陣痛が生じない場合には、点滴の速度を毎分一二滴(六ミリリットル)に増量することとしていたため、丁木は、同日午前一〇時三〇分ころ、アトニンの点滴速度を毎分一二滴にした。
9 原告花子は、腹痛や呼吸困難等の苦痛が持続していたため、四日午前一〇時四五分ころ、再びナースコールを押した。そして、丁木が測定したところ、陣痛間歇は二、三分、陣痛持続時間は約二五秒であったが、胎児心拍数が毎分七〇拍位まで低下していたため、丁木は、アトニンの点滴を中止し、酸素の投与を行うとともに、午前一〇時四八分ころ分娩監視装置を原告花子に装着し、直ちに医師に報告した。
10 医局に居た丙川は、電話で右連絡を受け、被告乙山が回診に出ていたため、四日午前一〇時五〇分ころ陣痛室に駆けつけ、原告花子を診察したところ、分娩監視装置上の心拍曲線で胎児心拍数が毎分七〇拍から七八拍くらいに低下していること、子宮内圧曲線で内圧が〇まで下がる部分がないこと、原告花子が子宮下辺りの下腹部に痛みを訴えていること、血性のおりものが少量でていること、子宮口の開大は三、四センチメートルであること、胎胞形成があることが確認されたため、臍帯圧迫等による徐脈の可能性も考えて原告花子に体位転換(側臥位)をさせた。
そして、丙川は、直ちに担当医である被告乙山のところに行き、原告花子の胎児に徐脈があること、子宮口の開大は三、四センチメートルであること、体位転換(側臥位)及び酸素吸入の措置を行っていることなどを報告したところ、被告乙山は、体位転換及び酸素投与による効果を見るため、しばらく様子を見るように指示した。
丙川は、陣痛室に戻って暫く様子を見ていたが、その後も徐脈が回復しないことから、直ぐにも経膣的な急速分娩(鉗子あるいはバキューム等の遂娩器具を使って胎児を引き出すこと)又は帝王切開術の実施が必要と考え、被告乙山に再度報告するとともに、原告花子を分娩室に移す準備を開始した。
分娩監視装置を装着した同日午前一〇時四八分ころから一一時一〇分ころまで、原告花子の下腹部痛は強く、胎児心拍数は毎分八〇拍位に低下したままであった。また、同日一一時一〇分ころの子宮口の開大度は約四センチメートルであり、胎児の児頭は骨盤に入っていなかった。
11 原告花子は、四日午前一一時二〇分ころ、分娩室に移動したが、その際、自力で分娩台にあがることができなかった。入室後、原告花子には酸素吸入が再開され、分娩監視装置が再び装着された。
被告乙山は、同日午前一一時二〇分ころ分娩室に来室し、原告花子を診察した結果、その子宮口の開大が六、七センチメートルにすぎず経膣分娩は困難と判断して、帝王切開により胎児を娩出することを決定し、同日午前一一時三五分、分娩室から原告太郎に電話をかけ、胎児仮死のため緊急帝王切開を必要とすることを説明し、同人からその同意を得た。
12 帝王切開術は、丙川の執刀で四日午前一一時五五分から開始され、丙川は、同日午前一一時五七分、胎児と胎盤を同時に娩出した。
被告乙山らは、手術中、子宮体部に三、四ケ所母指頭大の溢血斑があり、子宮体は全体的にやや紫色に変色しているのを確認し、また、術後の胎児付属物等の検査では、胎盤の後血腫、血性の羊水(羊水を含めた出血量が約一八五五ミリリットルあった。)を認めた。
被告乙山らは、手術後、原告花子に血管内凝固症候群(DIC)が発症したため、大量輸血等の処置を行った。
13 A子は、新生児の生後における状態を表すアプガースコア(一〇点満点で、点数が低いほど予後が悪く死亡率も高い。)が心拍動〇点(なし)、呼吸〇点(なし)、筋緊張〇点(なし)、反射〇点(なし)、皮膚の色〇点(全身チアノーゼ)、合計〇点という重症仮死(重症の新生児仮死)の状態で出生した。そこで、枚方市民病院の麻酔科、小児科のスタッフは、蘇生術として、A子の気管に挿管して酸素投与したり、ボスミンを投与したり、心臓マッサージを施行したりしたところ、約三〇分後に、心拍動が再生し、アプガースコア一点まで蘇生したが、強度のチアノーゼが持続し、頭蓋内出血が出現した。そして、A子は、生後九日目の一二日に、重症仮死による腎不全により死亡した。
<証拠判断省略>
三 請求原因3(被告乙山の責任)について
1 請求原因3(一)(陣痛促進剤の使用に関する過失)について
(一) 陣痛促進剤による胎児仮死発生のメカニズム
<証拠省略>を合わせると、以下の事実が認められる。
(1) 陣痛促進剤(陣痛誘発剤)は、子宮収縮を発来ないし増大させ、分娩を誘発あるいは促進する薬剤であり、プロスタグランジンE2製剤(プロスタルモンE錠剤等の製品がある。)、オキシトシン製剤(アトニン注射液等の製品がある。)がこれに該当する。
(2) 陣痛促進剤の中には薬剤に対する個人差が大きいものがあり、十分妊婦の状態を監視せずに投与を行うと、異常な子宮収縮(硬直性子宮収縮や過強陣痛)が起きて、子宮内圧の過大な上昇、陣痛周期の縮小、陣痛持続時間長期化等の症状が出現することがある。そして、陣痛促進剤の過大な投与等によって過強陣痛が起きると、母体側の子宮胎盤循環血流減少、絨毛間腔を流れる血流量減少、胎盤におけるガス交換不全がおきて胎児に低酸素状態が発生するため、胎児仮死(胎児・胎盤系における呼吸・循環不全を主徴とする症候群)が生じる他、母体側にも子宮破裂、胎盤早期剥離を発症することがある。
このように陣痛促進剤の副作用としての胎児仮死、胎盤早期剥離が発生するのは、陣痛促進剤による過強陣痛が起きることが主な原因となっている。
(二) 本件胎児仮死発生の原因
前記認定の事実に、<証拠省略>によれば、原告花子に対し帝王切開術を実施したところ、胎児と胎盤とが同時に娩出したこと、右胎盤に後血腫があり、羊水が血性となっており、その出血量が羊水を含めて約一八五五ミリリットルに及んでいたこと、子宮体部に三、四ケ所母指頭大の溢血斑があり、子宮体部は全体的にやや紫色に変色していたこと、右手術後、原告花子に血管内凝固症候群が発症していることなどからして、原告花子に胎盤早期剥離が発症して胎児への酸素供給量が減少し、以後胎児への酸素欠乏状態が回復することなく悪化したため、A子が重症仮死で出生したものと認められる。
(三) ところで、原告らは、陣痛促進剤の副作用により、原告花子に過強陣痛が生じて、胎児心拍が低下し、あるいは過強陣痛の合併症としての胎盤早期剥離を生じ、A子が胎児仮死となったと主張するので検討する。
<証拠省略>によれば、過強陣痛とは、子宮の収縮が異常に強いもしくは長いものをいうところ、産婦人科用語問題委員会は、過強陣痛を、子宮口の開大度を基準として、①四ないし六センチメートルの開大の時に、子宮内圧が七〇mmHg以上又は陣痛周期が一分三〇秒以内あるいは陣痛持続時間が二分以上の場合、②七ないし八センチメートルの開大の時に、子宮内圧が八〇mmHg以上又は陣痛周期が一分以内あるいは陣痛持続時間が二分以上の場合、③九センチメートルから分娩第二期にかけての時に、子宮内圧が五五mmHg以上又は陣痛周期が一分以内あるいは陣痛持続時間が一分三〇秒以上の場合と定義していることが認められる。
これを本件についてみるに、鑑定人田中一郎は、四日午前一〇時から一〇時四五分までの間の原告花子の陣痛周期と陣痛発作からすると過強陣痛が存在したとは言い難いし、また、診療録上の分娩監視結果における同日午前一〇時四八分以降の子宮収縮も過大な子宮収縮にはあたらないと証言している(<証拠省略>)。
また、前記認定のとおり、原告花子の分娩状態は、①アトニンの点滴が開始された四日午前一〇時ころの陣痛周期は四、五分、陣痛持続時間は約二〇秒、②同日午前一〇時三〇分ころの陣痛周期は二、三分、陣痛持続時間は約二〇秒、③アトニンの点滴が増量された後の同日午前一〇時四五分ころの陣痛周期は二、三分、陣痛持続時間は約二五秒であったから、胎児仮死状態の始まる午前一〇時四五分ころまで、前記産婦人科用語問題委員会の定義にいう過強陣痛に該当する状態にはなかったものと認められる。
これらの事実を勘案すれば、陣痛促進剤の投与により原告花子に過強陣痛が生じ、胎児仮死を招来したと認めることはできない。
なお、鑑定の結果によれば、鑑定人田中一郎は、アトニン投与により陣痛周期短縮、胎児心拍低下と時間的に連続して起きたともいえる状況があることからして、原告花子にアトニンの筋注がされたのであれば、過強陣痛、胎盤早期剥離、胎児心拍低下に至った可能性も高くなることを挙げて、アトニン投与により過強陣痛が起きた可能性を否定できないといしているが、証人田中一郎の証言によれば、同人は、鑑定書作成の際には分娩監視装置による子宮圧測定等の結果を見ていなかったために過強陣痛の可能性を留保していたことが認められるうえ、前記認定のとおり、アトニンの投与は点滴静脈注射によってなされていることに照らし、右鑑定の結果をそのまま採用することはできず、他に陣痛促進剤の投与により過強陣痛が生じ、胎児仮死を招来したことを認めるに足りる証拠はない。
したがって、その余の点について判断するまでもなく、被告乙山が陣痛促進剤を原告花子に投与したことに関する過失の主張は理由がない。
2 請求原因3(二)(胎児心拍監視不十分の過失)について
(一) 原告らは、医師は、アトニンを投与する場合には、投与開始後子宮収縮が安定するまで少なくとも三〇分間連続的に胎児心拍等を自ら監視し、また、分娩監視装置を用いて連続的に分娩状態を監視する必要があったと主張するので検討する。
<証拠省略>によれば、以下の事実が認められる。
(1) 日本母性保護医協会は、産婦人科医による医療事故防止のため研修ノート等の冊子、書籍を発行しており、これら書籍等が一般の産婦人科医に対して重要な役割を果たしている。
(2) 日本母性保護医協会は、昭和五〇年七月に発行した研修ノートのNO6「分娩監視」において、胎児仮死を早期に発見するための注意事項として、胎児仮死診断に関する理想は全例分娩監視装置をつけ胎児心拍曲線と陣痛曲線を連続的に監視することが望ましいが、事実上不可能なので、心音による心拍の間歇的聴診によって問題のある例について必ずこれらの連続監視を行うようにすること、トラウベ聴診器、心音計又はドップラー胎児診断装置による間歇的聴診で心拍異常が認められたとき又は子宮収縮剤を用いて分娩誘発を行うとき、連続監視が必要なこと、陣痛周期が二分以内、子宮内圧が四〇mmHgを越えるときには厳重な監視が必要となること、陣痛周期が五分以内になったときには連続監視が望ましいこと、妊娠中と分娩第一期(分娩開始から外子宮口全開大、約一〇センチメートル開大までの期間)では、一般的には、心音計、ドップラー胎児診断装置を用いて分娩監視をすべきであるとしている。
(3) 日本母性保護医協会は、昭和六三年九月発行の「産婦人科医療事故防止のために」において、分娩第一期の望ましい留意事項として、分娩経過の監視には助産婦など看護職員をあたらせ、監視中異常を認めたときは必ず医師に連絡させること、オキシトシン、プロスタグランジン製剤の投与をしている場合には、特に胎児心拍数や母体の監視を厳重にして、過強陣痛や急速な分娩遂行を監視するための要員をおくこと、胎児仮死の徴候が認められないときは酸素投与など適切な処置を行い、改善が認められないときは急速遂娩を考慮すること、分娩監視装置があれば連続的な分娩監視が可能であるから、胎児仮死の診断のために最も望ましいとしている。
(4) アトニンの製薬会社も、陣痛促進剤に関連した医療事故(過強陣痛による子宮破裂、胎児仮死等)の報告を受けて、昭和五四年一一月からは、副作用による事故を防止するため、投与後に妊婦や胎児の経過観察(子宮収縮の状態、胎児心音の状態など)を十分行うこと及びアトニンに対する子宮筋の感受性が高い場合には過強陣痛の症状が現われることもあるので投与を中止するか又は減量することなどの使用上及び適用上の注意を能書に記載するようになった。
右認定のとおり、日本保護医協会が昭和五〇年に発行した研修ノートには、陣痛促進剤を使用する際には、医療事故を防止するため、心音による心拍の間歇的聴診による胎児心拍と陣痛を連続的に監視すべき旨注意が記載され、また、製薬会社も、副作用による医療事故(過強陣痛による子宮破裂、胎児仮死等)を防止するため、昭和五四年一一月からは、アトニンの能書に、投与後は妊婦と胎児の経過観察を十分に行うべきこと、同薬剤に対する子宮筋の感受性が強い場合には過強陣痛の症状が現われることがある旨注意書きをするようになったのであるから、アトニンの投与後は子宮収縮が安定した状態となるまで胎児心拍及び陣痛状態を十分監視して過強陣痛や胎児仮死等の副作用を防ぐことが必要であることは、本件出産のなされた平成二年一二月ころまでに一般の産婦人科医の医療水準となっていたものと推認される。
しかし、前記のとおり、昭和六三年九月発行の「産婦人科医療事故防止のために」においては、助産婦など看護職員を分娩監視にあたらせるのを一般的監視方法としつつ、陣痛促進剤を投与をしている場合には胎児心拍等の監視を厳重にすべきと指摘するだけで、分娩監視装置による連続的監視を行うのが最も望ましいとしているにすぎず、分娩監視装置による連続的監視を積極的に要求しているとは解されないのであり、また、前掲甲第二二号証によれば、昭和五五年に「産科と婦人科」に掲載された研究者の論文にも、過強陣痛の診断について、分娩監視装置のないところでは、触診法により陣痛の持続及び周期をとって診断することが記載されていることが認められることからすると、その後、分娩監視装置による連続的監視方法が、一般の産婦人科医に普及していったものとは認め難い。
また、日本母性保護医協会が平成二年一月に発行した本件冊子には、「アトニンを使用する場合には、投与開始後から安定した子宮収縮の状態になるまで、少なくとも三〇分間は医師が持続監視をすべきこと及び分娩監視装置により母体と胎児の監視をすることが求められる」との記載があるが、分娩監視装置による監視については「求められる」との表現に留まっており、「必要である」とまで記載されていない上に、右冊子が発行された後本件出産までわずか一一か月しか経過していないことをも考慮すると、本件出産までの間に、原告主張のような監視方法が一般の産婦人科医の医療水準とまでなっていたと認めることはできない。
したがって、被告乙山が、アトニンの点滴開始後子宮収縮が安定するまで自ら連続的に分娩監視を行ない、あるいは分娩監視装置を用いて連続的監視を行うべきであったと言うことはできない。(なお、前記のとおり、被告乙山は、アトニンの点滴開始後、助産婦の丁木を原告花子の分娩監視にあたらせ、丁木は五分ないし一〇分おきに原告花子の陣痛、胎児心拍数を測定していたことが認められるから、前記のような当時の一般の産婦人科医の医療水準に照らすと、右分娩監視に過失があったとは認め難い。)
(二) 次に、原告らは、原告花子が四日午前一〇時ころには持続的な息苦しさや下腹部の痛みを訴えるなどして医者の来診を求めていたのであるから、このような異常が続いていた同日午前一〇時三〇分前ころからは分娩監視装置を装着して連続的に胎児心拍を監視すべきであったと主張するので検討する。
前記認定の事実に、<証拠省略>によれば、前記のとおり、一般の産婦人科医としては、陣痛促進剤を使用する場合には胎児心拍や陣痛の状態を十分監視すべき義務があるが、本件当時、高度徐脈が存在するなどの胎児仮死に繋がるような異常が認められるのでない限り、分娩監視装置を装着して連続的に胎児心拍等を監視しなければならないとは一般的には理解されていなかったこと、原告花子は、四日午前一〇時過ぎころ、丁木に対し、呼吸困難、下腹部痛等を訴え医師の診察を求めたことはあるが、アトニンの投与後の五分ないし一〇分間隔で行われた陣痛、心拍数の測定では胎児仮死を予見できるような異常は全く見られなかったこと、丁木は、同日午前一〇時四五分ころになって初めて、胎児の心拍数が毎分七〇拍位まで低下しているのを発見し、直ちに分娩監視装置を装着したうえ、医師に連絡したことが認められる。
右認定の事実からすれば、被告乙山に、四日午前一〇時三〇分前ころから、分娩監視装置を装着し、連続的に胎児心拍を監視すべき義務及びその義務違反があったものとは認め難く、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(三) したがって、その余の点について判断するまでもなく、被告乙山の胎児心拍監視不十分の過失の主張は理由がない。
3 請求原因3(三)(帝王切開術決断を遅延した過失)について
(一) 帝王切開術を決断すべき時期
<証拠省略>によれば、日本保護医協会が昭和五〇年七月発行した研修ノート「分娩監視」では、胎児仮死治療計画の基準について、基準心拍数(陣痛間歇期において一過性の心拍数の上昇あるいは下降を除いた最も平坦な心拍数の値で、分娩中などでは数分以上持続するもの)が毎分一〇〇拍以下が五分ないし一〇分続くときは急速遂娩に踏み切るべきとされていたこと、昭和五六年八月発行の研修ノート「周産期胎児管理のチェックポイント」では、分娩時の胎児心拍が持続的な高度徐脈(毎分一〇〇拍以下)へ移行する場合は大変危険であり、胎児仮死と診断できること、分娩時胎児仮死の治療としては、まず経母体治療(体位転換、酸素吸入、陣痛抑制)を行うが、胎児仮死が重症または急激発症のときは直ちに急速遂娩すべきこと(経母体治療併用)、高度変動一過性徐脈(徐脈持続が六〇秒以上、最小心拍数毎分六〇拍未満、波形はU字形で一過性徐脈中でも細変動を伴う)から持続的な徐脈へ移行する傾向が見られるような場合が重症の胎児仮死であること、重症の胎児仮死は、一〇分以内に胎児を娩出できれば胎児死亡を防ぎうるので判断を迅速に行うことが最も大切であること、急速遂娩の方法としては、一般に分娩第一期にあって、その後経膣分娩に長時間を要する見込のときは帝王切開を採用し、分娩第二期では鉗子又は吸引分娩を採用すべきであるとされていたこと、その後の研修ノートにおいても右と同様の胎児仮死治療方法が維持されていたこと、平成二年一二月当時には、右のような胎児仮死の治療方法は一般の産婦人科医の医療水準にあったことが認められる。
右認定の事実によれば、本件出産当時、一般の産婦人科医であった被告乙山は、胎児に毎分一〇〇拍以下の高度徐脈が一〇分以上持続した場合には、直ちに重症胎児仮死として診断して急速遂娩を決定し、妊婦が分娩第一期にあり、その後経膣分娩には長時間要すると判断される場合には、帝王切開術を決断すべきであったということができる。
そして、前記認定のとおり、四日午前一〇時四五分に胎児心拍数が毎分七〇拍位と測定された後、同日午前一〇時四八分ころからは分娩監視装置上も平均毎分八〇拍の高度徐脈が持続していたうえ、原告花子は分娩第一期にあり、その子宮口の開大は約四センチメートルに留まっており、しかも、児頭が骨盤の中に入っていない状態であって、経膣分娩には長時間を要する状態にあったから、遅くとも分娩監視装置が装着されてから一〇分経過後の同日午前一一時ころには、被告乙山は、帝王切開術の実施を決断すべきであったと認められる。
(二) A子死亡との関係
前記認定のとおり、A子の重症仮死は、原告花子に胎児早期剥離が発症したことが原因となったと認められるところ、<証拠省略>によれば、以下の事実が認められる。
(1) 胎盤早期剥離は、発生原因が様々で予見が困難のこともあり、胎児死亡率は高く、一般的な胎児死亡率は三〇ないし八〇パーセント、胎児に障害が残らず助かる率は五〇パーセント前後とされている。
軽症の時(胎盤の剥離の程度及び出血量が少ない時)にはほとんど自他覚症状がないが、中等症以上の場合には、妊婦に腹痛、腹壁の緊張、腹部膨満、子宮底の急激な上昇、膣からの出血(量は多くない)、貧血、顔面蒼白、呼吸促迫などの著明な症状が出現する。
中等症以上の胎盤早期剥離の場合、可及的速やかに胎児及び胎盤を娩出しなければならず、母児の予後は症状発生と分娩終了との時間的間隔が長いほど重篤となる。また、胎盤の剥離の速度が速ければ速いほど、胎児の酸素欠乏状態、心拍低下が急激に起き、胎児の救命が困難となる。
剥離面積が胎盤母体面の三分の一以上になると胎児は死亡する。
(2) 一般的に、胎児救命が不可能となるのは、胎児心拍停止後三分ないし五分とされているが、胎児心拍停止までに高度徐脈が相当継続した場合など、心拍停止に至るまでの胎児の心機能の状態も関係し、心機能が弱っているのであれば、右時間は更に短くなる。
胎児心拍が毎分七〇ないし八〇拍まで低下した高度徐脈の状態では、母体から胎児への酸素供給量は五〇パーセントくらいまで減少する。
(3) A子の心拍は四日午前一一時二〇分ころまで確認されているが、その後何時停止したかは不明である。
(4) 枚方市民病院の本件出産当時の医療体制を前提とした場合、帝王切開決断からその開始までに最低三〇分は必要であり、更に手術開始後胎児娩出に至るまでには何分かを要する。
右認定の事実に、前記認定の原告花子の分娩経過を合わせると、原告花子は、その時期は明らかではないが、胎盤早期剥離を発症し、四日午前一〇時過ぎころには中等症程度まで進行し、胎児心拍数が急激に低下した同日午前一〇時四五分ころからは胎児への酸素供給も通常の半分程度まで減少し、以後胎児の酸素欠乏状態は回復することなく悪化していったため、A子が重症仮死で出生したと認めるのが相当である。
また、右認定の事実によると、A子の心拍が停止した時刻は不明であり、仮に、被告乙山が、帝王切開術の実施を四日午前一一時ころに決断していたとしても、実際の胎児娩出は、その準備等に要する時間を考慮すると同日午前一一時三〇分以降にならざるをえないのであるから、中等症以上の胎盤早期剥離が発症して胎児娩出まで約一時間三〇分は経過することとなる上に、毎分七〇拍ないし八〇拍の高度徐脈、胎児の酸素欠乏状態の少なくとも四五分以上は継続し、胎児の相当な心機能低下が余儀なくされると認められるから、娩出された胎児が救命された可能性は乏しいと言わざるを得ない。<証拠省略>中には右認定に反する部分が存在するけれども、<証拠省略>と対比してこれをそのまま採用することはできず、他にA子の救命が可能であったことを認めるに足りる証拠はない。
(三) 以上のとおり、被告乙山が四日午前一一時ころ帝王切開術の施行を決断し、これを実施した場合にも、A子死亡という結果を回避し得たとは認め難いから、仮に被告乙山に帝王切開術決断を遅延した過失が認められるとしても、A子の死亡との因果関係が存在しないものというべきである。
したがって、その余の点について判断するまでもなく、被告乙山の帝王切開術を遅延した過失の主張は理由がない。
四 結論
以上のとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大谷正治 裁判官牧賢二 裁判官北岡久美子)